茂庭綱元は文字の領主で岩ケ崎城とも深い関係が!茂庭町は茂庭氏から!

    文字の歴史
    茂庭綱元は、文字の領主で墓は、洞泉院の向かいに。

    • ・茂庭綱元のしたことを年表で。
      ・茂庭は当初は鬼庭だった。
      ・文字は隠居料として拝領。
      ・伊達政宗から一度は出奔.
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    「茂庭綱元」が「鬼庭」とは驚いた!

    茂庭綱元の出所と家系図!

    「茂庭綱元」
    の本名は「鬼庭綱元」(おににわつなもと)です。
    改名させたのは
    「豊臣秀吉」
    です。
    その辺の経緯もおいおいと。

    茂庭綱元の出身と父と母や子供の家系図!

    「茂庭綱元」
    は以下の説明です。

    鬼庭 綱元(おににわ つなもと) / 茂庭 綱元(もにわ つなもと)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。陸奥・出羽の戦国大名であった仙台藩主伊達家の重臣。
    (wikipediaより)

    出身は天文18年(1549年)、伊達郡小屋館(赤館)城主・鬼庭良直(左月斎)の嫡男として生まれる。
    嫡男なので、当然長男。

    家系図は以下です。(これから作成します)

    では、歴史的にしたことを以下の候で。

    茂庭綱元がしたこと年表で!戦乱を駆け抜けた英雄!

    主な内容を表にして紹介します。

    天文18年(1549年)伊達郡小屋館(赤館)城主・鬼庭良直(左月斎)の嫡男として誕生
    天正3年(1575年)家督を相続長井郡川井城主
    天正13年11月人取り橋の戦いで父非業の最後
    天正14年(1586年)奉行職
    天正16年(1588年)安達郡百目木城主となり所領を5,000石に加増
    天正18年(1590年)奥州仕置にともなう知行再編により柴田郡沼辺城主
    同年葛西大崎一揆の弁明のため豊臣秀吉との折衝役
    天正19年(1591年)伊達政宗岩出山減転封磐井郡赤荻城主
    文禄元年(1592年)肥前国名護屋に在って留守居役。秀吉に鬼が庭にいるのは縁起が悪いと「茂庭」に改名
    文禄4年(1595年)政宗の命により良綱に家督を譲ることを迫られ隠居に追い込まれ主君との仲が犬猿に。結果伊達家から出奔。
    同年本多正信を介して徳川家康から誘いを受けたが、正宗公の横やりでかなわず。
    慶長2年(1597年)赦免されて伊達家に復帰する。
    慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い
    同年栗原郡文字に1,100石を与えられる
    慶長9年(1604年)政宗の五男・宗綱(卯松丸)が栗原郡岩ヶ崎城主の後見役
    慶長19年(1614年)大坂冬の陣政宗の長男・秀宗の陣に属する。同年夏の陣
    元和4年(1618年)宗綱が早世。菩提を弔うため入道して了庵高吽と号し、高野山成就院に赴き三年間供養。
    その後政宗より宮城郡下愛子の栗生に館を拝領。以後はここに居住
    寛永13年(1636年)5月24日に政宗が死去。以後隠居領の文字に隠棲
    寛永14年同地に洞泉院を創建
    寛永17年(1640年)5月24日死去。享年92。洞泉院の石仏を以て墓石
    その後の文字隠居領は三男の実元が相続した

    茂庭綱元と豊臣秀吉との関係!碁の勝負で勝った!

    「茂庭綱元」
    公には、いろんなエピソードが残っています。
    以降かいつまんで紹介。

    愛妾「香の前」は碁の勝負での拝領!

    「茂庭綱元」
    は、豊臣秀吉に気に入られていたようです。
    直接雇用の話もあったようです。
    が・・どうやら、きっかけは
    「香の前」
    という、秀吉公のお気に入りの「愛妾」の存在。
    文禄の役での、名護屋城留守居の時に、秀吉と碁の勝負。

    茂庭氏は何をかけたかは、わかりませんが、秀吉は愛妾の
    「香の前」
    を賭けたのですが、「茂庭綱元」が勝ってしまった。

    そこで、「伊達政宗」はそれを聞きつけて、「香の前」を差し出すように。
    茂庭氏は却下。
    それが出奔の原因と。
    一説には、帰参の条件が
    「香の前」
    を差し出すことだったとか。

    どうやら、そのようになったような印象。
    「香の前」は正宗公との間に
    「一男一女」
    そのまんま、「茂庭綱元」が引き取り、自身の子として育てました。

    父を討った相手武将を自分が雇用した豪傑漢!

    「人取り橋」
    の戦いで、父左月斎を討ち取った岩城氏家臣・窪田十郎が後に伊達軍に捕らえられた際のお話。
    「茂庭綱元」
    はどうしたか?

    「虜囚を斬るのは士道に悖る」

    として無罪放免。
    これに感服した窪田十郎は、以後「茂庭綱元」の家来として奉公。

    江戸時代の茂庭家!その後どうなった?

    宮城県の松山町史によると以下の記載。

    天正19年(1591年)に遠藤氏が松山から登米郡石森に移された後は石川昭光・古田重直が領主を歴任し、慶長8年(1603年)に茂庭良綱が松山に入部。以後、幕末に至るまで茂庭氏がこの地を治めた。

    とあります。
    さて、どのくらいの知行(石高)だったのか?
    こういう記載が。

    正保元年(1644年)、寛永総検地の結果を受けての知行地再編にともない10000石に加増された。
    (wikipediaより)

    結構な石高。
    奉行職ですから、当然かもしれませんね。
    幕末まで続きました。

    茂庭綱元と文字の関係と墓の場所と写真!

    「茂庭綱元」
    公の墓地は、ちょうどお寺で自身が創建した

    「洞泉院」

    が、真ん前に見える場所。
    マップはこちら。

    墓所の写真は以下です。

    茂庭綱元公の墓所の写真

    こう言う説明版があります。
    茂庭綱元公の墓所の写真
    ここに、文字小学校があったのですね~~
    ちょっと、感慨深いものがあります。

    茂庭綱元公の墓所の写真

    その奥に
    茂庭綱元公の墓所の写真

    茂庭綱元公の座禅体の石像!

    茂庭綱元公の墓所の写真

    ここから、「洞泉院」が、こんな風景で望めます。

    とうせん院の風景写真

    「茂庭綱元」公は、文字の地と切っても切れない縁です。
    文字の歴史では、とくに有名な場所になります。
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    *案内板の表記と、記事内容が若干相違してる面がありますが、あくまでもネット上での辞書の内容を重視しました。
    しかし、大きな相違点はありません。

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