伊達三傑ともいわれる「茂庭綱元」の文字に残した功績や歴史的史実を解説。
- ①:伊達家の茂庭綱元
②:岩ケ崎赴任その後
③:伊達政宗公没後の文字との関係
などについて解説。
本記事内容の初めに
本記事の内容は、文字と茂庭綱元公の関係や伊達家における
「茂庭綱元公」
の位置関係などについて岩ケ崎出身で現在横浜市在住の
「S様」
に寄稿いただいたものです。
原文や見出しはそのままに転載いたします。
より深く
「文字」と
「茂庭綱元公」
との関係(関連)を理解できるかと思います。
ここからです。
はじめに
仙台藩初代藩主伊達政宗の三傑のひとりで「吏の綱元」と称された吏僚・茂庭石見綱元のことを、政宗の官房長官という表現をする歴史家もいます。綱元は「武の伊達藤五郎成実」、「智の片倉小十郎景綱」とともに並び称された三傑であります。
仙台藩による藩政期の栗駒の地は、1604年岩ケ崎領として初代の領主(当時は城主)に政宗五男・卯松丸(後の宗綱)が配され、綱元は評定役のまま守役を仰せつかり、卯松丸を後見して初期の施政を切り盛りしました。仙台城での政務も兼務したので、仙台と岩ケ崎を往復する度に町民との交流があったらしく、茂庭町という町名は綱元を思慕して名付けたものと云われています。
二迫文字に1,100石とされる隠居領を有し、政宗公が死去すると全てを投げうって文字に隠棲しました。創建した洞泉院を望む高台に自然石に刻んだ自身の座禅像を墓とし、隣りには最後まで綱元の墓を守って4年後の祥月命日に死去したと伝わる家臣・遊佐道海の墓があります。綱元の岩ケ崎城での居館・執務・業績、遊佐道海は何者か、なぜ綱元墓の隣りに墓があるのか、二人の文字での生活はどの様なものであったか、現代の地元の皆さんに伝わっていることは殆どないと思われます。
「貞山公治家記録」、「茂庭家記録(綱元君記)」、「風土記書上」
等の史料を引用して、話を進めたいと思います。
茂庭綱元の生い立ち
茂庭氏は、源平合戦に平家方の武将として白髪を染めて出陣したことで有名な斎藤別当実盛の後裔とされる。
山城国に住んでいた実盛の後裔実良は奥州へ移住し、伊達家初代の朝宗に仕え、伊達郡茂庭村(現在の福島市飯坂茂庭)を領して鬼庭と称し、戦国時代に至った。
綱元は、天文18年、父・周防良直37才の嫡男として奥州伊達郡鬼庭村赤館(福島市飯坂町茂庭)に於いて誕生した。通称は左衛門と称し、後に石見に改名。諱は綱元。父・11代目の良直は、天正13年の人取橋の戦いで、73才の身で甲冑が重いので水色の法被に黄綿帽子の軽装で参陣、主君政宗を逃がすために奮戦したが乱戦の中で討死した勇将であった。
永禄10年(1567)、後に綱元が仕える政宗が誕生した(父は輝宗公)。輝宗公は外交感覚に優れたとみえ、武田信玄、織田信長に鷹や馬などを献上して誼を保っていた。
翌11年、綱元は20才で、室・新田氏(新田遠江守景綱の息女)を迎え、翌年、長男が誕生した(安元、のち24才で早世)。綱元の岳父・新田景綱は米沢の舘山城主で、後の岩ケ崎七代領主・中村成義の家祖にあたる人である。
綱元の家督相続から米沢舘山城出仕の頃
天正3年(1575)、茂庭綱元は27才で家督を相続し、置賜郡川井村(米沢市)の川井城主として伊達輝宗に仕え、嗣子政宗の近侍となった。鬼庭村も合わせて領し知行は2百貫文(2千石)であった。
天正9年(1581)、綱元は領地置賜郡川井より米沢の舘山城へ出仕することになった。
天正13年の人取橋の戦いは、政宗の父・輝宗が畠山義継によって横死した事件の弔い合戦であった。政宗の南下政策を阻止しようとした佐竹・葦名・岩城・石川・白川らの連合軍との戦いであった。父・良直を討った敵の兵士窪田十郎に対する綱元のノーサイドの精神を伝える逸話-「捕虜を切るは士道に背く、解放してやれ」-が伝わる。
綱元奉行職に昇進、中央政権との交渉役で頭角を現す
天正14年、綱元は奉行職に昇進し石見と改名し石見綱元と称した。同16年、安達郡百目木城に移り、五千石に加増。
同18年、百目木城は奥州仕置きで没収され、柴田郡沼部城に移る。翌19年、政宗が一揆扇動の嫌疑を受け、尋問に先立ち特命を帯び上洛し、秀吉側近に接触し弁明に努めた。
政宗は会津黒川から岩手沢に減転封し、岩出山に改名。
綱元は西磐井郡赤荻城主に異動した。
文禄元年、朝鮮派兵により名護屋に着陣、綱元は名護屋留守居に就き、兵站を担当した。陣中、秀吉の命により「庭に鬼がいるのはおかしかろう」と、「茂庭」に改姓した。
文禄3年、秀吉から家臣になれと執拗に勧誘されたが断っていた。賭け碁で決着しようと秀吉は愛妾を賭け、綱元が勝ったので愛妾お種を下賜された。この聚楽第での囲碁対局に呼び出され行司役を勤めたのは、京都寂光寺塔頭・本因坊の僧であった。勝負は綱元の六目半勝ちと伝わる。この僧は後の江戸幕府から俸禄を得た囲碁家元の本因坊算砂であった。最近ある本で読んだが、隠れていた歴史というのは味があるものです。
翌4年、政宗公は岩出山への帰国を許され、綱元も同道。帰国後、綱元は隠居を命じられ、良元に家督を相続した。隠居料上限百石を宣告された綱元は、お種(香の前)を伴い出奔した。これは、お種を政宗に差し出さなかったからという低俗な解釈、綱元を京に滞在させ秀吉政権の情報キャッチという政宗の陰謀という解釈があるが、学者の見解はまとまっていない。
慶長2年、綱元は藩に帰参し香の前を政宗に献じた。翌年、綱元長女・津多が伏見屋敷で誕生した。津多は、後に原田甲斐宗資に嫁ぎ、寛文事件で知られる甲斐宗輔を産むことになる。
同5年、四男又次郎(後の佐沼亘理初代宗根)が伏見屋敷で誕生した。二人は綱元の子として育てられたが、実は政宗の落胤であった。このことを告白する政宗の書状が亘理氏の佐沼城で最近発見された。
関ケ原から仙台城築城、仙台藩国家老へ
慶長5年、東北関ケ原、留守氏別動隊として良元とともに出陣。
二迫文字に隠居料千百石を賜る。翌6年、仙台城の普請に着手し
政宗上洛中の藩政を委任された(仙台留守居に就任)。
同8年、仙台城凡そ完成し入城。綱元は国家老(城代家老)に就き
六奉行による執行体制がスタートした。綱元家督の良元は志田郡松山領を賜り、赤荻より移った。この後、定元、姓元、・・・と茂庭本家は続くことになる。
綱元、栗原郡岩ケ崎城主後見を兼務
徳川家康による江戸幕府の施政が始まり、1604年、政宗五男・卯松丸2才(後の宗綱)が藩北部の要衝、岩ケ崎の初代城主に、綱元は評定役のまま守役を仰せつかり仙台屋敷で卯松丸を養育し、城主不在の岩ケ崎城と仙台城とを往復して、領内の施政を取り仕切った。この頃の岩ケ崎城は富沢氏が築城後2百年は経っており、東端の蛭子館に居館としたと伝わるが、大規模な改修が行われたと推定する。
今の岩ケ崎茂庭町という町名は、この頃に綱元が仙台出張で頻繁に往来したときの町民の思慕の情から生まれたものという。
慶長17年(1612)、綱元は岩ケ崎に於いて、作事奉行に日下藤兵衛清重を指名し、浄土宗円鏡寺を造営した。宗門が浄土宗である政宗側室の香の前のために、浄土寺を開基し寺領として一貫文を寄進したのである。
政宗公が親しく領国中を巡検し岩ヶ崎に滞在した際に、参詣のため本堂に行って本尊如来の顔を拝した瞬間、五男の城主卯松丸(10才)が「円鏡寺ご本尊の阿弥陀如来の光明かくやくとして思わず「目まつした」旨、申し上げたところ、政宗公より、これからは[目まつの本尊]と申しあげるようお言葉を賜り、霊仏としてお供物料七百文を賜った。[目まつ]とは、「眩しくて目がくらんだ」意味と思われる。この年、綱元は二迫に於いて、猿飛来青雲地蔵堂、稲屋敷阿弥陀堂を建立した。
翌18年12月、岩ヶ崎城主で五男卯松丸の元服祝いで、政宗公は雪の中を石見綱元宅を訪れて祝宴の饗膳を囲んだ。以後、卯松丸は摂津守宗綱と称した。
慶長19年6月、綱元は三迫岩ヶ崎に於いて馬市を立ちあげた。
城主宗綱が岩ヶ崎に移られて以降、綱元より提案申し上げていた
ものが叶ったのである。此の時、馬九百頭余りが競りに出されたが、残らず売れたと云う。
元和2年、綱元嫡男の良元38才が奉行職に就任した。この頃、
超多忙な綱元に替わり、岩ケ崎の仕置は古田伊豆重直が執るようになっていた。同4年、摂津守宗綱が仙台の私邸で病没し、綱元は剃髪して菩提の為に高野山に赴き、3年後に帰国した。
これから推察すると、綱元が岩ケ崎施政に関与したのは1604年から元和4年(1618)までの14年余と思われる。
綱元と遊佐道海との邂逅
綱元が後に文字の隠居地に隠棲する際に同伴した家臣の遊佐道海と邂逅したのは、「伊達世臣家譜」「綱元君記」「遊佐氏家伝」により、凡そのことを拾うことができる。これら個々の記録を推察を加えて繋ぎ記述してみようと思う。
まず、遊佐道海の出自は道海の六世孫という仙台藩の儒者・遊佐清左衛門好生(遊佐木斎)の祖としての簡単な来歴に触れた「伊達世臣家譜」による。道海は、二本松畠山氏の重臣の出で、天文の頃に三迫の族人・岩ケ崎城主五代の富沢左衛門家(直景、貞連)に寄寓、二迫鴬沢城(計須見館とも)に住し、子の遠江某は天正18年、葛西大崎起兵の際にそこで戦死したと記されている。
遊佐道海本人は戦火を潜り抜けて生き延びたと推定される。
その後は、秀吉の奥州仕置きの戦闘での消息が伝わっていないが、慶長の初期1604年以降、茂庭綱元が岩ケ崎城伊達氏の後見として多忙になった頃に綱元の家老として、「茂庭家文書(綱元君記)」に登場する。これには、道海の諱が采女のち外記と記され、弟・伊豫の存在も記されている。
慶長9年(1604)綱元は三迫岩ケ崎城に配置した初代城主・政宗五男宗綱公(2才)の後見を仰せつかり多忙を極めた。
采女(遊佐道海)は、先代家老次左ェ門死去の後任として茂庭家の家老を仰せ付けられ、弟・伊豫も家臣として伊達の中遊佐館に住したとされる。道海の旧主富沢日向守直景が政宗と昵懇の間柄だったので、富沢日向が道海と茂庭綱元とを繋いだと推察する。
慶長19年、弟伊豫は茂庭家の家訓に触れた行為(氏神の狐に手をつけ切り殺した)によりお咎めの上に追放された。かなり具体的な追放理由であり、伊豫は実在したと考えるのが妥当であろう。
政宗公の死と了庵綱元の晩年
寛永13年5月、政宗が江戸屋敷にて逝去した。6月末、了庵綱元は一切の政務を離れ、下愛子栗生(青葉区栗生)の隠居所を政宗長女の五郎八姫に譲って、隠居領のある二迫文字に退いて隠棲した。このとき、家臣の遊佐道海、斉藤孫左、土屋孫右衛門の三人が従ったとされる。
翌年、了庵綱元は二迫文字村に於いて寺を創建した。山号普門山、洞泉院と称した。鶯沢村鶯沢山金剛寺の綾南統異和尚を開山の祖として招聘して住持とした。更に翌年、貞山公(政宗)菩提のため、文字村に阿弥陀堂を建立した。瓦葺き三間四方のお堂で、立
像二尺八寸の阿弥陀二尊を安置した。此の地は洞泉院の寺領内であったが、阿弥陀堂の別当は山伏の縁覚に命じたという。
此の時より毎年5月24日(祥月命日)には、阿弥陀堂の前に於いて神楽を奏すべきことを命じ、阿弥陀堂へ石燈籠二基を献納した。神楽は現代の子供たちに受け継がれ伝統保存されている。
寛永16年には、初代岩ヶ崎城主摂津守宗綱菩提のため妙覚堂を建立し、洞泉院本堂より六十間の回廊で阿弥陀堂(政宗公)と妙覚堂(宗綱公)とをつなぎ、日参しては読経に明け暮れる毎日を送ったという。両堂、回廊ともに今は面影もない。
茂庭了庵綱元大往生
寛永17年(1640)5月月24日、貞山公の祥月命日(四周忌)であるこの日、了庵綱元は文字の隠居所に於いて病没した。
この日の「治家記録」には、「貞山公御木像を瑞鳳殿に安置せらる」と、政宗公の祥月命日に開眼供養を執行した記事のあとに、
「同日、茂庭石見綱元入道了庵、在所栗原郡門地(文字)邑に於いて死去、九十二歳。貞山公の時、甚だ値遇(知遇)あり」と特記されている。貞山公の没後4年のことで、政宗の誕生から逝去までを見届けた唯一の重臣、茂庭石見綱元入道了庵、92才の大往生であった。法名は「了庵々主前石洲籌外全勝大居士」。
墓所は阿弥陀堂の側にあり、自然石を以って大仏を刻したものであり、高さ9尺5寸の座像で洞泉院の「綱元仏像」と称せられる。
洞泉院を見下ろす小高い丘にある荒砥石作りの座禅像(膝廻りが1丈5寸)がその墓であり、整備された台座に毅然とした姿を留めている。この台座は家臣らも含む墓群をまとめるため、後世の人々が整備したものであろう。
了庵は臨終に際し固く殉死を戒めたが、家臣の土屋孫右衛門は一年後の一周忌の法事の日に殉死し、その十日後には斉藤孫左も殉死したとされる。
『綱元君記』の記録の中に、「土屋孫右ェ門、妻子は奥方へ御機嫌伺いに出し後にて切腹す」と記されている。老いた綱元をお世話した家臣には妻子がいた、つまり男所帯ではなかった。
また、奥方と称する人が居た事が分かるが、この奥方とは誰の妻であるか明確ではない。綱元の分家で当時の文字に領地があり住んでいた茂庭実元(綱元三男)の妻、つまり綱元の息子の嫁女であったと筆者は推察しているだが。
つまり、土屋は自分の妻子を奥方の元へご機嫌伺いに送り出し、留守にした上で自害したというのであるから、妻子が伺った先は主君綱元に身近な実元家であると推察するのは自然な流れと思う一方で、92才の了庵綱元に世話をする奥方という歳の離れた女性がいたという仮説を完全に棄却することもできない。
最後まで綱元に仕えた遊佐道海は十年一日の如く勤行し、慶安4年(1651)の了庵綱元の命日に没したとされる。
土屋孫右衛門と、遊佐道海の墓は綱元墓の側にある。
その後の茂庭家
了庵綱元の隠居領は、了庵死の翌年、53才の正次郎実元(着坐・文字茂庭氏)が相続した。実元には跡継ぎがいなかったので、
忠宗公の命によって兄の茂庭良元の二男茂行(茂庭大蔵茂行)26才を養嗣子とした。忠宗公からは知行百貫文を与えられた。
実は、茂行の兄・長元(良元の長男)が38才で鉄砲暴発により盲目となって家督から除かれたので、二男茂行が家督に立てられるべきところ病身で手も不自由であるから家督にかなわないとして、三男大隅定元がすでに片倉小十郎重長の家嗣となっていたのを良元家(松山茂庭本家)に戻し家督相続としたのである。
然るに茂行は「病身といえども証人として江戸詰を立派に勤めた。兄を差し置いて弟を以って家督にするのは甚だ不審千万なり」と主張して父子互に不和となった。忠宗公がこの事を聞き込み、もっともの事だとは思ったが、奉行を勤めている良元の家督には成し難く、ちょうど叔父の正次郎実元に子がないので実元の家督に立てるように忠宗公から知行百貫文を与えられたのであった。
その上、兄の良元からも百貫文を分知され、正次郎実元の本知と合せて都合三百貫文の知行とするから堪忍するように忠宗公から仰せられたのである。この三百貫文の加増は文字を中心とした領地であり、茂庭大蔵茂行は文字茂庭家を継ぎ二迫文字に住んだ。
文字茂庭氏は、延宝3年(1675)には二代大蔵茂行の子の三代大隈が継ぎ、のち大蔵恒真(常実)と改め、延宝9年(1681)、祖父実元及び外曽祖父綱元に縁の深い三迫岩ヶ崎村に三千石の所拝領を賜り、六代めの領主となった。元禄7年(1694)、恒真は、岩ヶ崎領で他藩からの御預かり人が逃亡した責により改易となり、伊達上野(伊達一門、水沢)にお預けとなり、その地で病死した。
養嗣子の万五郎元実も佐々主計にお預けとなったがのち赦免されている。こうして、綱元三男の茂庭正次郎実元に始まる家格「着座」の文字茂庭氏は、綱元孫の大蔵茂行、曾孫の大蔵恒真と続いたが、運命というか、綱元とは違って表舞台には出ずに、最後には改易となってしまった。
松山茂庭本家のその後
茂庭綱元の本家は、良元、定元、姓元、・・・・と続き、奉行職を輩出した家柄で、仙台藩伊達家の家格「一族」、一万三千石、綱元嫡男・良元の代に松山領を所拝領して十二代茂庭敬元の明治維新まで続いた。ご子孫の十五代当主は仙台で健在である(宮城県姓氏家系辞典)。
綱元五男常元の養子先;軽部氏
常元は大番組五百石の軽部隠岐を継いだが、常元の孫の頃には岩ヶ崎領にて領主で親戚の茂庭大蔵恒真の許で勤めていた。
この軽部隠岐は加賀の浪人から秀吉の家臣になり、香の前の付け人として仙台に来たと伝わる。常元の母は家譜に軽部隠岐の娘とあり、綱元が隠岐の娘に産ませたことになる。綱元は戸籍上、78才であった。信じられない!脱帽です!
常元(五右衛門)曽孫の軽部六右衛門は、三迫川から分岐・開削した十㎞に及ぶ金成迄の農業用水路(軽部堰)を築き、大崎耕土の米作増産に寄与した。茂庭綱元の頃の企画といわれるが、天和4年の完成とされる。
現在、三迫川取水口近くに軽部六右衛門広場が記念公園として整備され、記念碑、顕彰碑が移設されている。
六右衛門のご子孫は一六代当主が鹿島台で健在である。
本編を読んで思うこと
当サイト管理人のあとがき:
私は文字に住んでいて、コミュニティー組織の一員です。
何かPRするものがないとな~~と思い、本サイトを昨年立ち上げましたが、文字を知ることことはやはり先人たちの
「歴史」
を知るところから。
正直
「茂庭綱元」
公のことはあまりよく知りませんでした。
今回こちらの記事
が縁で「S様」と知り合いこの記事に至った次第です。
最近知ったのですが、仙台の
「仙台城址公園」(仙台城跡)
にたま~~に見かける
「伊達戦国武将隊」
にも「茂庭綱元」の名前が見られます。
が・・どうも
「常勤」
ではないのかな??(仔細は不明)
しかし、その方文字の茂庭綱元公の墓参りなどにいらっしたようですね。
(コミュニティーの方が言ってました)
最後に寄稿いただきました
「S様」
ありがとうございました。