この地に保呂羽館(計須見城)址)と言うお城があった古い歴史を紹介。
- ①:保呂羽館(計須見城)址にある石宮を紹介
②:現在は下文字地区民の方が秋祭りに参詣
③:栗駒町史と文字の歴史保存会の資料
石宮と愛宕神社の碑など紹介していきます。
愛宕神社に合祀されてる社号額紹介:保呂羽神社の由来
保呂羽館(計須見城)址
(ほろはやかた:かすみじょう)
と読みます。
愛宕神社に、こんな神社の社号額が掲示されています。
この中の上の写真の
「保呂羽神社」
が今回の舞台です。
保呂羽館(計須見城)址とはどんなお城?
文書があるのですが、以下の写真で。
上記の内容は以下の写真の
「栗駒町史」
に記載の内容です。
内容を転記します
栗駒町露鴬沢町の境界三角点上に位置している。
高さ150mあまりの断崖絶壁山頂に、東西南北に30mの平場があり、周囲に二段の土段がある。
神社の社殿があったが、明治43年愛宕神社に合祀され、「石宮」だけが残っている。
こう書かれています・・確かに。
「歴史」
を紐解いてみる。
保呂羽館(計須見城)
には、無冠太夫伯元なるものが拠っていたが
「安倍貞任」
に滅ぼされたと。
「安倍貞任」
が亡くなったのは以下。
死没 康平5年9月17日(1062年10月22日)
(wikipwdiaより)
ずいぶん以前のお話
それからたぶんですが400年くらいたったころ・・
その後岩ケ崎城主「富沢氏」は軍師に
「遊佐道海(美作;入道道海)」
を招き、ますます勢力盛んで三の迫全域を手中に。
その後この
「遊佐道海」
氏が
「保呂羽館(計須見城)」
をいただき「天正18年(1590年)」まで在城。
この方の墓は文字「洞泉院」茂庭綱元公の墓の傍らにあると書かれています。
現実以下の写真の右が
「遊佐道海」
と書かれています。
天正18年だとまだ茂庭綱元公はちょうど1590年の記述。
「奥州仕置にともなう知行再編により柴田郡沼辺城主」
とあります。
まだまだ文字には関係ない時代。
茂庭綱元が政宗の五男・宗綱(卯松丸)が栗原郡岩ヶ崎城主の後見役できたのが
「1604年」
です。
そして隠居料として正宗公からいただいた
「文字」
に遁世したのが1634年。
「保呂羽館(計須見城)」
に住み着いた
「遊佐道海(美作;入道道海)」
氏と茂庭綱元公との接点がどうもわかりませんが
「墓が隣」
と言うならやはり何かの接点があったのでは?
私個人的には感じるんだっけな~~
栗駒町史にはこう書かれている:文書を紹介
以下のように文字の
「愛宕神社」
に関する記述があります。(栗駒町史)
これによると。
- ①:葛峰前愛宕山山頂にある。
②:12代景行天皇の御宇「皇子日本武尊」が東征の際に勧請
場所は当初
③:小野松荘の大土森(宇土森)に表刀(おと)神社を奏斎
さてこの12代景行天皇とは?
景行天皇(けいこうてんのう、垂仁天皇17年 – 景行天皇60年11月7日)は、日本の第12代天皇(在位:景行天皇元年7月11日 – 同60年11月7日)。『日本書紀』での名は大足彦忍代別天皇。日本武尊(ヤマトタケル)の父。考古学上、実在したとすれば4世紀前期から中期の大王と推定されるが、定かではない。
(wikipediaより)
なぬ・・ほんとかな?
日本書紀の時代のお話ですか~~~
その後山火事になる恐れがあるため
「慶長元年(1596年)3月」
神職「村田紀伊」氏が現在の地に遷座したとあります。
(愛宕神社鳥居前の碑)
これは現在の碑(上記写真)に書かれていることと同じ。
*「遊佐道海」氏と茂庭綱元公の関係はこちらで詳しく解説しました。
保呂羽館(計須見城)址:石宮に行ってきた記録:写真で案内
「保呂羽館(計須見城)址」
の場所は、入り口は細倉の金田森公園の入り口から入ります。
金田森公園の入り口の道路
途中別れます。
左へ。
しばらく行くと車は通行不可。
毎年、下文字地区の皆さん、ここから先を仮払い清掃を行っています。
こんな道路です。
ここが最後の上り
到着しました。
確かに「石宮」です。
その奥は確かに文書のように段になっています。
さらにその奥は断崖のがけ。
全く書かれている通りでした。
道中の木を覆った苔がきれいでした。
「石宮」
までは車止めてから大体ですが
「600m~700m」
ほどはあろうかと思います。
*私の感覚なのであてにならないかもしれません・・が、一人では危険なので行く際は、ガイドをお願いしたほうが無難。
本記事内容についての読者様からのご指摘について
本記事の
「茂庭綱元」公と
「遊佐道海」氏
についてのアドバイス。
それによると・・
「仙台藩伊達世臣家譜」、「綱元君記」と言うのがあるそうです。
その中に・・・
申し訳ないのですがそのまま転記(コピー)させていただきます。
・道海の没年慶長五年は、慶安五年(1651年)のミスプリと思います。
綱元との接点は、道海と弟・伊豫は仙台藩客分(恐らく富沢貞運、政宗の懇ろな関係で実現)を経て、
・1604年綱元が岩ケ崎城主後見を兼務し多忙の時期に兄弟で綱元の家臣になり、
・その後、道海は綱元の家老・次左エ門の後代家老に就いた。
・1636年、政宗公は死去すると、綱元は文字の隠居地に隠棲した。
このとき、道海ら家臣3名が綱元に従って文字に来た。
・1640年、綱元が92才、政宗の祥月命日に亡くなった。
・道海は墓守に徹していたが、1951年に文字の地で遂に亡くなった。
詳しい方ですね~~
こちらが正確な歴史のようです。
岩ケ崎城の「富沢氏」についてはいかのリンクが詳しいです。
上のリンクの内容に「富沢氏」と「伊達政宗公」の関係の記述があります。
文字に住んでいて、文字の歴史を紹介しているのですが、文字の方以外でも歴史に詳しい方は
「茂庭綱元公」
と言う方に関連すると、色んな内容が出てくるんだな~~と。
とても感心しました。
ご指摘ありがとうございます。
「洞泉院」
の歴史にも通じるものがあります。
次回はそこを書いてみようかと思いますが、なかなかね~~・・・和尚さんにはいつでも取材に来ていいよ~~
と言われてるのですが、いずれそのうちに。
文字愛宕神社の歴史:保呂羽館(計須見城)址の感想
行ってみてここにお城が?
しかも此処を征伐したのが
「安倍貞任」
とは恐れ入りました。
前九年の役、後三年の役の時代です。
源氏の「八幡太郎義家」の時代。
安倍貞任が亡くなったのが
「1062年10月22日」
この時代です。
そのころにここに
「保呂羽館(計須見城)」
があったとは驚きます。
確かに「鍋子伝説」ではここ中山地内には
「花街」
があったという言い伝えで、住所も
「大町」
ですからね~~
その当時は盛んににぎわっていたのかもしれません。
「夢のようなお話」
ですが。
描かれてることと、現地のイメージが同じなのでこれも驚きました。
最後に「下文字自治会」の方々には毎年ご苦労様です。
今回同行させていただきました。
お礼申し上げます。
(当サイト管理人)
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