「鍋子伝説」とは?
- ・鍋子のお墓の現在の写真
・供養塔と黄金寺との関係。
・栗駒町史の内容から解説
鍋子さんはどんな方?時代背景を解説
「鍋子」
父:小林修理
母:鎌子
時代背景は、「鍋子」がなくなったのが
「1392年」
というから、室町の時代のお話。
その当時の日本は「足利義満」によって、南北朝が統一された年に当たります。
室町幕府の3代将軍に当たります。
そんな時代に、文字大町という場所に、花街があったと。
これは驚きます。
しかも、その当時の文字には、二千件の町家が立ち並んでいたというから、これまた驚き。
ほんとかな?
いずれ、栗駒町史からの抜粋を中心に紹介していきます。
(栗駒町史の鍋子伝説のページ1)
父小林修理はどんな人?
(栗駒町史の鍋子伝説のページ2)
父の名は「小林修理」。
南北朝の戦乱で、新田義貞の第三子越後の国「新田武蔵守義宗」の郎党。(家来)
しかし、武運なく玉造郡真山にたどり着き、当地の山里磯田に世を忍ぶ生活を。
その折、百姓の娘「鎌子」と夫婦になり、鎌子の父と三人暮らし。
しかし、以前先陣仲間の「鳥海三郎」の誘いで、懐妊中の妻を置き去りにして、再び戦に参戦。
その後14年、ふたたび真山の地に身を寄せるも、妻の安否を尋ねるも、行方はわからず。
戦乱で当地は荒廃し、家は焦土と化し、妻も子も行方知れず。
修理は、流浪の身で「文字大町」にたどり着き、する仕事もないので、けんかの仲裁や、秋田越えの人の事件等を生業にして暮らしていたと、記載されます。
ある時、仲裁のため招かれた遊〇屋で、大いに痛飲しその相手の遊〇の素性を尋ねたところ、何と自分の子であることを、そして相手の鍋子も、わが父と確認も、大いに恥じ入り川の淵に、身を投げたと。
この場所を「鍋子が淵」と言うようになったといいます。
当時の文字は「尾松庄」といい、朝廷の直轄地。
秋田に通ずる唯一の山越え街道の宿場町として、大いに栄えてなんと前述のように
「二千軒」
の町家が、立ち並んでいたとありますが、ほんとかな~~と。
今から700年の前のことですから。
文字の地名として、当時の名残の
- ①:大町
②:けせし
③:三日市場
の地名が残ってると記載。
しかし、筆者は大町以外確認できないのですが、どこかな~~と。
「大町」
は、現在の鍋子の碑が立ってる近辺。
「三日市場」
は現在の二連水車のあたりにかと。
「けせし」
は不明です。(筆者の確認では)
鍋子の墓の写真と金剛寺の関係
ヘッダー(上部)の写真は、現在の「鍋子の墓」の写真です。
栗駒町史とほぼ同じです。
驚くのはそこの碑文の内容。
「開基金剛院殿正外了躰大姉、十一世海山造立之、寛政七年四月三日」
これは供養碑。
鴬沢金剛寺住職十一世海山和尚が、500年遠忌に建てたもので、伝説の
「鍋子の供養碑」
です。
*参考文献
鴬沢金剛寺は鍋子の父小林朱里が供養のため開山
「鍋子」
が身を投げたことを悲しみ、父として慚愧に堪えなかったのは、察しに余りあるところ。
そこで「小林修理」は、鍋子の霊を弔い供養するべく
「金剛寺」
を開山。
金剛寺には、裏山に二尺余りの五輪の塔があり、碑銘は風雨で摩滅して読み取れないが、これが
「鍋子の墓」
であるという、古老の言い伝えだと書かれています。
文字の歴史に思うこと
「鍋子」
が没したのは
明徳二年八月十九日(1392年)
のこと。
その時代に、秋田越えの山越え街道として、町家二千軒が立ち並び、宿場町として、大いににぎわったと。
「ほんと???」
って思いますが、「栗駒町史」にはそう書いています。
現在は、300戸ちょっとといったところ。
少子高齢化で、どんどん人口が少なくなっていきます。
この秋田越えには、幕末の仙台藩の志士も、秋田での参戦にここを超えていったと、有備館の資料で見たことがあります。
今は、世界谷地原生花園のわきを通って、ランプの宿「湯浜温泉」に抜ける道路。
「旧秋田越え街道を歩く会」
なるものがあり、何度か歩いた経験がありますが、まことに、感慨深いものがあります。