栗原市文字に古民家を改造した「そば処もんじ:永左エ門」がオープン。
- ①:「古民家そば:永左エ門」の場所をマップで紹介
②:営業日と営業時間の案内
③:メニュー(おすすめ)と問い合わせ先など
「そば処もんじ:永左エ門」
の宮城県栗原市の文字らしい古民家のお店の風景や特徴、店主の蕎麦へのこだわりなど紹介します。
*5月23日に正式オープンしました。
「そば処もんじ:永左エ門」の場所のマップ:現地付近の写真
「そば処もんじ:永左エ門」
の現住所は以下。
- ・宮城県栗原市栗駒文字津花16番地
マップは以下。
(グーグルマップより引用)
目標地として
「栗原市役所」
からの位置にしてみました。
・距離:約22.1㎞
・時間:約30分ほど
になります。
現地の写真です。
とてもおしゃれな看板で、いかにも
「古民家風」
に感じます。
看板の箇所の坂を上ります。
大きな長屋門が出迎えてくれます。
この長屋門の先に
「そば処もんじ:永左エ門」
のお店があります。
「そば処もんじ:永左エ門」のメニュー:おすすめは「田舎蕎麦きく天付き」
「そば処もんじ:永左エ門」
①:メニュー
②:おすすめは「田舎蕎麦きく天付き」
について写真で案内。
「そば処もんじ:永左エ門」のメニュー:特徴は田舎風
「そば処もんじ:永左エ門」
のメニューは以下の写真で。
ちなみにメニュー詳細(お品書き)は以下。
- ・田舎蕎麦(冷):1,500円(手打ち十割蕎麦)
・田舎天ぷら付き蕎麦(冷):1,800円(手打ち十割蕎麦)
・田舎キノコ三昧汁(温)蕎麦(冷):2,000円(手打ち十割蕎麦)
・田舎野良(のら)蕎麦:1,000円
*山形の肉そば風(冷たいつゆが人気の中太蕎麦)
・チビ天ぷら(キクラゲ・小):200円
・天ぷらセット(きくらげ・中~太他):500円
・キノコ三昧汁(温):500円 - ・珈琲:抹茶:300円
・日替わりデザートセット(コーヒー・抹茶付き):500円
・ノンアルコールビール(アサヒ小瓶):300円
・ビール・アサヒ中瓶:500円
・栗原市内の酒蔵酒(盛り切り一合):800円 - *本手打ち十割蕎麦はご予約含む一日20食限定
(税込み価格)
手打ちそば(田舎十割蕎麦)は一日20食限定なので、予定のある方は事前予約がおすすめです。
予約先は以下。
TEL:0228-24-8812
FAX:0228-24-8812
です。
*2024年10月メニュー一部改訂されました。
イチオシ「田舎蕎麦きく天付き」を写真で紹介
こんな蕎麦です。
・こちらは前菜
・きく天(キクラゲと旬のてんぷら)
・田舎蕎麦きく天付き
開店前なのですが、PRのために作っていただきました。
とてもおいしかったですよ~~~
こちら一日20食限定なので予約がおすすめです。
予約先は以下。
TEL:0228-24-8812
以下の写真はコーヒーと抹茶をセットにした写真です。
300円で選択追加できます。
ついでですがキノコの
「キクラゲ」
についての豆知識は以下です。
きのこ:キクラゲの詳しい紹介はこちら
(wikipediaへのリンク)
田舎キノコ三昧汁(温)蕎麦(冷)を写真で紹介
キノコ汁がとてもおいしい逸品・
2024年秋(10月)の新メニュー。
キノコ汁です。
とてもおいしいですよ~~
(おすすめします)
キノコは
・むきだけ
・なめこ
・シイタケ
・しめじ
・マイタケ
・えのき
他複数のキノコがはいっている逸品。
但、その日によってキノコの種類が変わるので日替わりで楽しめます。
「古民家そば:永左エ門」:営業時間と問い合わせ先
「古民家そば:永左エ門」
の営業時間と問い合わせ先はこちら。
- ・営業時間:木・金・土・日:11:00~14:00
(LO:13:00)
・期間休:12月冬至~3月啓蟹前日
・問い合わせ先(予約含)
TEL:0228-24-8812
FAX:0228-24-8812
電話番号のお間違いにはご注意ください。
*:2025年の営業日の変更について。
2025年3月より営業日が以下のように変更になります。
・「土・日・月・火」
です。
まだ先のお話ですが案内しておきます。
お店の風景と駐車場など
ここからは、古民家風の店内とお店の外観や駐車場など紹介します。
・駐車場:入り口のゆるい坂を上って右手側。
・長屋門
・長屋門の天井
・お店の正面風景(長屋門の奥)
・お店玄関
・店内風景(築嘉永6年(1853年):170年ほど経過古民家
・囲炉裏の風景:床も特徴的
・店内風景
店内は4テーブル:基本的に1テーブル4人
・そば打ちのスペース:ここでそばを打ちます。
蕎麦打ちの場所は玄関わきの中のスペース。
誰でもその場所は見学できます。
お帰りの際は上記写真を左折してください。
「そば処もんじ:永左エ門」でそばを食べたらせせらぎ散歩道を散策
「そば処もんじ:永左エ門」
の脇を流れるのは
「二迫川」
この川沿いを散策するのも暑い夏にはおすすめ。
川のせせらぎと流れゆく水の音を観賞しながら、自然の空気に触れるのもとても良いこと。
場所はお店のすぐ下になります。
・せせらぎ散歩道の入り口
左上がお店です。
・せせらぎ散歩道の全景
・二迫川の手前
・左脇の木々は昨年植樹した桜
・形のいい栗の木
上の栗の木ですが、冬にはこんな形を見せてくれます。
以下の様な解析があります。
(参考まで)
「水の流れる音を聴きに行こう」
人間は自然の音を聞くことで、ストレスや痛みが軽減するだけでなく、ポジティブな感情や認知機能も向上することが示されています。
*カールトン大学
システマティックレビュー
メタ解析
「休日は森林浴してそば食べて・・水の流れる音を聴き!」
季節が変わると、色んな景色に変化していきます。
川の流れは夏には涼しく感じてとてもよさげ!
文字と蕎麦(そば)の歴史のお話
文字と蕎麦の関係(歴史)と
「そば処もんじ:永左エ門」
の古民家の由来や茂庭綱元が奨励した(?)かもしれない食料としての蕎麦の勝手な推論など。
「そば処もんじ:永左エ門」の古民家の歴史と店主の思い
まずは長屋門内のこのお品書き。
「そば処もんじ:永左エ門」
のの古民家は
・築:嘉永6年(1853年)
なのでほぼ170年ほど以前の建物です。
昔の建物らしく、店内の写真をご覧のように梁が曲がってます。
管理人の私の家も同じく曲がりでした。
しかも、炉端(囲炉裏)でお湯を沸かしたり、魚を焼いたりしていたので、写真のように黒く煤けています。
これが古民家の特徴です。
店主はこの古民家の生まれ。
この古民家で生まれ育ち、実際にここに住んでいて40年ほど以前に隣に母屋を新築。
この古民家は解体せずに残していたんだな。
郵便局を今年定年退職して
「そば処もんじ:永左エ門」
を開業。
ちなみに
「永左エ門」
は嘉永6年にこの家を建てた初代の方の名前だそうな。
店主の思いは上記をご一読ください。
文字と蕎麦の関係を歴史でひも解いてみる
以下のような古典文書があります。
上記は
「奥羽観蹟聞老志」
(おううかんせきぶんろうし)
と言う江戸時代初期の書物からの抜粋です。
「奥羽観蹟聞老志」
の作者は
「佐久間洞巌(本名:佐久間義和。字は子拔。別号は 容軒、太白山人など。1653~1736)
と言う方です。
本文献の詳しい説明はこちらです。
上記の文献の写真の中で
「蕎麦」の項で
①:二迫文字村
②:東山鬼首
③:篠谷湯之原
について「上品也」と記されています。
しかも前置きの文に
④:天子
⑤:将軍
に対して「朝貢」と書かれています。
いわゆる献上品と私自身は解釈しました。
この古典が書かれた時代
「1640年代」
には、文字は品質の良い、しかも上品な献上品としても重宝される、蕎麦の産地として有名だったんだと思います。
文字が蕎麦の産地だった理由を探ってみる:個人的な想像
文字の英雄は
「茂庭綱元公」
です。
本サイトでも「茂庭綱元公」の記事は複数掲載しました。
茂庭綱元は文字の領主で岩ケ崎城とも深い関係が!茂庭町は茂庭氏から!
そこで私の私見ですが、以下物語として。
当時の文字はどんな環境だった?
江戸時代、またはそれ以前の戦乱の時代以前から
「米」
は貴重品で、お金の代用品でもありました。
大名の多寡は
「石高」(米の生産量)
で表された時代です。
江戸時代の武士の給料もコメで支払われていた時代。
幕末の英雄「勝海舟」の父の
「勝子吉」
の石高は、直参旗本のほぼ最低の
「50石二人扶持」
でした。
給料が「50石」(年収)です。
コメが給料だった時代です。
くしくも大阪の堂島には世界初の先物市場で
「米相場」
が機能していました。(1700年代以降)
1,600年代の文字はコメの産地と言うよりは、米も作りながら
「蕎麦」
も食べていたんだと思います。
コメの不足を、麦やそばで空腹を満たしていたと思うのがごく自然だと。
同居人の、今年91歳のおふくろさん曰く
「昔は(戦前とその近辺の時代)米がとれなくて蕎麦や麦で空腹を満たしていたものだと。」
そういいます。
どこの家でも、その辺の空き地を開墾し麦やそばを植えたものだと。
確かに、我が家でも麦を植えていました。(小さいころの記憶)
しかしながら、今のような製粉技術があった時代ではありませんから、黒くて全くおいしそうに思えなかったとも、私のおふくろさんは言っています。
ここからは私の推測ですが
「茂庭綱元公」
が、伊達政宗公からこの文字の地に、約1000石を隠居料として拝領し
「洞泉院」
を開山した時点で、米の石高(生産量)では住民のおなかを満たせなかった事態を憂い
「蕎麦」
の生産を奨励した?
のかもしれません。
蕎麦なら、年貢の取り立てもなかった(?)かもしれませんから。
「1,000石」
と言っても、その相当数は年貢として徴収されてたでしょうから、やはり住民はいつも
「空腹」
だったのかもしれません。
まさに、食うために生きていた時代でしょう。
しかしながら・・そのそばが「上品」な県内三か所のうち一か所の生産地だった。
しかも、将軍やお殿様にに献上品として重宝される商品だった。
今では夢のようなお話。
しかし、おふくろさんの言うように、以前はどこの家でも
「蕎麦」
や麦は作っていたものだ・・この言葉には江戸時代からの名残を感じるのは、私だけでしょうか?
そこに文字の蕎麦の歴史を感じます。