栗原市文字に古民家を改造した「そば処もんじ:永左エ門」がオープン。
- ①:「古民家そば:永左エ門」の場所をマップで紹介
②:営業日と営業時間の案内
③:メニュー(おすすめ)と問い合わせ先など
「そば処もんじ:永左エ門」
の宮城県栗原市の文字らしい古民家のお店の風景や特徴、店主の蕎麦へのこだわりなど紹介します。
*2024年5月23日に正式オープンしました。
*2025年3月営業開始時よりメニュー改定いたしました。
*2025年7月よりメニュー改定いたしました。
詳しくはメニュー紹介ページ参照ください。
(メニューは季節により随時更新されます)
「そば処もんじ:永左エ門」の場所のマップ:現地付近の写真
「そば処もんじ:永左エ門」
の現住所は以下。
- ・宮城県栗原市栗駒文字津花16番地
マップは以下。
(グーグルマップより引用)
目標地として
「栗原市役所」
からの位置にしてみました。
・距離:約22.1㎞
・時間:約30分ほど
になります。
現地の写真です。
とてもおしゃれな看板で、いかにも
「古民家風」
に感じます。
看板の箇所の坂を上ります。
大きな長屋門が出迎えてくれます。
この長屋門の先に
「そば処もんじ:永左エ門」
のお店があります。
「そば処もんじ:永左エ門」のメニュー:おすすめは「田舎蕎麦きく天付き」
「そば処もんじ:永左エ門」
①:メニュー
②:おすすめは「田舎蕎麦きく天付き」
について写真で案内。
「そば処もんじ:永左エ門」のメニュー:特徴は田舎風
「そば処もんじ:永左エ門」
のメニューは以下の写真で。
ちなみにメニュー詳細(お品書き:税込価格)は以下。
- ・手打ち十割蕎麦膳:1,500円
・手打ち十割天ぷら付き蕎麦膳:2,200円
・手打ち十割正餐(せいさん)膳(店主推奨膳):2,500円
・肉蕎麦(冷):1,100円
・鳥中華(温):1,100円
*大盛は各500円ましにて対応可能時に賜ります。
・天ぷら盛り合わせ(きくらげ他季節野菜):800円
・ちょい足しおにぎり(一個):200円 - ・珈琲/オレンジジュース :300円
・永左エ門 珈琲セット(甘味付き):500円
・ノンアルコールビール(アサヒ小瓶):400円
・ビール・アサヒ中瓶:500円
・栗原市内の酒蔵酒(盛り切り一合:メニュー裏面参照):800円
・栗原市内酒蔵酒(三種のみ比べ:メニュー裏面参照):1,000円
手打ちそば(田舎十割蕎麦)は一日20食限定なので、予定のある方は事前予約がおすすめです。
予約先は以下。
TEL:0228-24-8812
FAX:0228-24-8812
です。*2025年7月メニュー一部改訂されました。(上記内容です)
イチオシ「田舎蕎麦きく天付き」を写真で紹介
こんな蕎麦です。
・こちらは前菜
・きく天(キクラゲと旬のてんぷら)
・田舎蕎麦きく天付き
開店前なのですが、PRのために作っていただきました。
とてもおいしかったですよ~~~こちら一日20食限定なので予約がおすすめです。
予約先は以下。
TEL:0228-24-8812以下の写真はコーヒーと抹茶をセットにした写真です。
300円で選択追加できます。ついでですがキノコの
「キクラゲ」
についての豆知識は以下です。
きのこ:キクラゲの詳しい紹介はこちら
(wikipediaへのリンク)*メニューは季節によって、都度変更される可能性があるので写真は参考程度にしてください。
田舎キノコ三昧汁(温)蕎麦(冷)を写真で紹介
キノコ汁がとてもおいしい逸品・
2024年秋(10月)の新メニュー。キノコ汁です。
とてもおいしいですよ~~
(おすすめします)
キノコは
・むきだけ
・なめこ
・シイタケ
・しめじ
・マイタケ
・えのき
他複数のキノコがはいっている逸品。
但、その日によってキノコの種類が変わるので日替わりで楽しめます。*メニューは季節によって、都度変更される可能性があるので写真は参考程度にしてください。
「古民家そば:永左エ門」:営業時間と問い合わせ先
名刺の写真(場所やインスタなど参考にしてください)
「古民家そば:永左エ門」
の営業時間と問い合わせ先はこちら。- ・営業時間:・土・日・月・火:11:00~14:00
(LO:13:00)
・期間休:12月冬至~3月啓蟹前日
・問い合わせ先(予約含)
TEL:0228-24-8812
FAX:0228-24-8812
電話番号のお間違いにはご注意ください。
*:2025年の営業日の変更について。
2025年3月より営業日が以下のように変更になります。・「土・日・月・火」
です。
お店の風景と駐車場など
ここからは、古民家風の店内とお店の外観や駐車場など紹介します。
・駐車場:入り口のゆるい坂を上って右手側。
・長屋門
・長屋門の天井
・お店の正面風景(長屋門の奥)
・お店玄関
・店内風景(築嘉永6年(1853年):170年ほど経過古民家
・囲炉裏の風景:床も特徴的
・店内風景
店内は4テーブル:基本的に1テーブル4人
・そば打ちのスペース:ここでそばを打ちます。
蕎麦打ちの場所は玄関わきの中のスペース。
誰でもその場所は見学できます。
お帰りの際は上記写真を左折してください。
「そば処もんじ:永左エ門」でそばを食べたらせせらぎ散歩道を散策
「そば処もんじ:永左エ門」
の脇を流れるのは
「二迫川」この川沿いを散策するのも暑い夏にはおすすめ。
川のせせらぎと流れゆく水の音を観賞しながら、自然の空気に触れるのもとても良いこと。
場所はお店のすぐ下になります。・せせらぎ散歩道の入り口
左上がお店です。
・せせらぎ散歩道の全景
・二迫川の手前
・左脇の木々は昨年植樹した桜
・形のいい栗の木
上の栗の木ですが、冬にはこんな形を見せてくれます。
以下の様な解析があります。
(参考まで)「水の流れる音を聴きに行こう」
人間は自然の音を聞くことで、ストレスや痛みが軽減するだけでなく、ポジティブな感情や認知機能も向上することが示されています。
*カールトン大学
システマティックレビュー
メタ解析「休日は森林浴してそば食べて・・水の流れる音を聴き!」
季節が変わると、色んな景色に変化していきます。
川の流れは夏には涼しく感じてとてもよさげ!文字と蕎麦(そば)の歴史のお話
文字と蕎麦の関係(歴史)と
「そば処もんじ:永左エ門」
の古民家の由来や茂庭綱元が奨励した(?)かもしれない食料としての蕎麦の勝手な推論など。「そば処もんじ:永左エ門」の古民家の歴史と店主の思い
まずは長屋門内のこのお品書き。
「そば処もんじ:永左エ門」
のの古民家は
・築:嘉永6年(1853年)
なのでほぼ170年ほど以前の建物です。
昔の建物らしく、店内の写真をご覧のように梁が曲がってます。
管理人の私の家も同じく曲がりでした。
しかも、炉端(囲炉裏)でお湯を沸かしたり、魚を焼いたりしていたので、写真のように黒く煤けています。
これが古民家の特徴です。店主はこの古民家の生まれ。
この古民家で生まれ育ち、実際にここに住んでいて40年ほど以前に隣に母屋を新築。
この古民家は解体せずに残していたんだな。郵便局を今年定年退職して
「そば処もんじ:永左エ門」
を開業。
ちなみに
「永左エ門」
は嘉永6年にこの家を建てた初代の方の名前だそうな。店主の思いは上記をご一読ください。
文字と蕎麦の関係を歴史でひも解いてみる
以下のような古典文書があります。
上記は
「奥羽観蹟聞老志」
(おううかんせきぶんろうし)
と言う江戸時代初期の書物からの抜粋です。
「奥羽観蹟聞老志」
の作者は
「佐久間洞巌(本名:佐久間義和。字は子拔。別号は 容軒、太白山人など。1653~1736)
と言う方です。
本文献の詳しい説明はこちらです。上記の文献の写真の中で
「蕎麦」の項で
①:二迫文字村
②:東山鬼首
③:篠谷湯之原
について「上品也」と記されています。
しかも前置きの文に④:天子
⑤:将軍に対して「朝貢」と書かれています。
いわゆる献上品と私自身は解釈しました。
この古典が書かれた時代
「1640年代」
には、文字は品質の良い、しかも上品な献上品としても重宝される、蕎麦の産地として有名だったんだと思います。文字が蕎麦の産地だった理由を探ってみる:個人的な想像
文字の英雄は
「茂庭綱元公」
です。
本サイトでも「茂庭綱元公」の記事は複数掲載しました。茂庭綱元は文字の領主で岩ケ崎城とも深い関係が!茂庭町は茂庭氏から!
そこで私の私見ですが、以下物語として。
当時の文字はどんな環境だった?
江戸時代、またはそれ以前の戦乱の時代以前から
「米」
は貴重品で、お金の代用品でもありました。
大名の多寡は
「石高」(米の生産量)
で表された時代です。江戸時代の武士の給料もコメで支払われていた時代。
幕末の英雄「勝海舟」の父の
「勝子吉」
の石高は、直参旗本のほぼ最低の
「50石二人扶持」
でした。
給料が「50石」(年収)です。
コメが給料だった時代です。くしくも大阪の堂島には世界初の先物市場で
「米相場」
が機能していました。(1700年代以降)1,600年代の文字はコメの産地と言うよりは、米も作りながら
「蕎麦」
も食べていたんだと思います。
コメの不足を、麦やそばで空腹を満たしていたと思うのがごく自然だと。同居人の、今年91歳のおふくろさん曰く
「昔は(戦前とその近辺の時代)米がとれなくて蕎麦や麦で空腹を満たしていたものだと。」
そういいます。
どこの家でも、その辺の空き地を開墾し麦やそばを植えたものだと。
確かに、我が家でも麦を植えていました。(小さいころの記憶)しかしながら、今のような製粉技術があった時代ではありませんから、黒くて全くおいしそうに思えなかったとも、私のおふくろさんは言っています。
ここからは私の推測ですが
「茂庭綱元公」
が、伊達政宗公からこの文字の地に、約1000石を隠居料として拝領し
「洞泉院」
を開山した時点で、米の石高(生産量)では住民のおなかを満たせなかった事態を憂い
「蕎麦」
の生産を奨励した?
のかもしれません。
蕎麦なら、年貢の取り立てもなかった(?)かもしれませんから。「1,000石」
と言っても、その相当数は年貢として徴収されてたでしょうから、やはり住民はいつも
「空腹」
だったのかもしれません。
まさに、食うために生きていた時代でしょう。しかしながら・・そのそばが「上品」な県内三か所のうち一か所の生産地だった。
しかも、将軍やお殿様にに献上品として重宝される商品だった。今では夢のようなお話。
しかし、おふくろさんの言うように、以前はどこの家でも
「蕎麦」
や麦は作っていたものだ・・この言葉には江戸時代からの名残を感じるのは、私だけでしょうか?
そこに文字の蕎麦の歴史を感じます。- ・手打ち十割蕎麦膳:1,500円